LOGIN今、わたしは一体どこにいるのだろうか。目を覚ますと、視界に見知らぬ家の天井が飛び込んできて、リスルはぼんやりとした頭でそんなことを考えた。夜が近いのか、薄暗い部屋の中にランタンの火が揺れていた。質素だが清潔なベッドに寝かされている彼女は自分のものではない粗末な麻の寝巻きを纏っていた。
廃墟と化したアルクスの町に背を向け、リスルは倒れそうになりながら夜道を東へ身一つで進んでいたはずだった。リスルは脳が拒否するのを感じながら、無理矢理、意識を失う前の最後の記憶を引っ張り出す。 リスルは夜明け前に小さな村に辿り着き、国境近くのモンテス山脈へと仕事に赴こうとしていた木樵の老人に出会った。全身に怪我と火傷を負ったまま、ふらふらとどこかへ歩いていこうとする彼女の姿を見咎めた老人に呼び止められ、二言三言言葉を交わした後、そのまま意識を失ったはずだった。 「ここは……メーレ村……?」 リスルは頭の中で王国南部の地図を思い描きながら、嗄れた声で呟いた。喉がひどく乾いていて、ひりひりと痛む。 ベッドの脇に目をやると、白いものが目立つグレージュの髪にアイスブルーの目の小柄な老女が木の椅子に腰掛け、リスルの顔を覗き込んでいた。彼女はリスルが目覚めたことに気付くと、ぽんぽんと言葉を投げかけてきた。 「おや、お嬢さん、お目覚めかい? 一昨日の朝、うちの主人が村の入口で声をかけたら倒れちまったとかで連れ帰ってきたんだが…その大火傷に身体の傷は一体どうしたんだい? 何か食べられるかい?」 「イルゼ。ようやく目を覚ましたというのに、そうやって畳み掛けるのは感心せんよ」 窓の外を眺めていた木樵の老人は、こちらを振り返ると、妻らしき老女を嗜める。リスルは鉛のように重い体をどうにかしてベッドから起こすと、二人へと頭を下げ、礼を述べた。 「素性も知れぬ身だというにもかかわらず、助けていただいてありがとうございました。わたしはロゼ・アウローラと申します。アルクスの街で大火に巻き込まれたのですが、運が良かったのか、こうして怪我を負いながらもどうにか生き延びることができて……」 リスルは、咄嗟に偽名を名乗った。リスルがこうして生き延びたことはいつかは教会に知れることだろうとは思ったが、少しでもそのときを引き伸ばしたくてついた嘘だった。それに、足がつくことでこうして見ず知らずのリスルを助けてくれた親切な老夫婦に迷惑をかけたくはなかった。 アルクスという地名を聞いて、イルゼの顔が同情で曇る。 「ああ、アルクスの……。『魔女』とやらに妙な力で町を全部燃やされちまったらしいとかって、この村でも噂になってるけど、よく生き延びて……。なんでも、町の人間は全員焼け死んじまったらしいって話だったから」 そう言いながら、イルゼはチェック柄のあしらわれたラベンダー色のエプロンの腹部を手で押さえた。額にはうっすらと汗が滲んでいて、リスルは怪訝に思う。リスルは一つ試してみたいことがあり、具合が悪いふりを装って、イルゼの身体へ触れる。 アルクスの町を結果的にリスルが焼いてしまったあの夜、彼女は傷ついた小鳥の命を救ったあの力――リスルが生まれ持った能力とは明らかに異なるあの力を己の意志で扱えるのであれば、体調が思わしくなさそうに見えるイルゼの”生命”に干渉できるのではないかと考えていた。 意識を集中させ、右手をイルゼの腹部に這わせると、リスルの髪と瞳が一瞬色を変えたが、室内に降りた夕闇に紛れて誰も気づくことはなかった。 (この人……もうあまり長くないみたい……) イルゼの身体が苦痛のあまり、悲鳴を上げているのがリスルの手のひらへと伝わってきた。イルゼの胃の辺りをかすった指先にぴりりとした痛みが走る。恐らく、この辺りに彼女の身体を蝕む病巣が存在しているのだろう。 (ああ……やっぱり……) あの日、自分の命が危険に晒されたことを契機に、リスルの中には元々生まれ持った力――炎を操り、アルクスを焼いた力とは別種の異能が目覚めてしまったようだった。どうやら、今のリスルには他者の生命に干渉することができるらしく、眼の前の老女の生命の感触を手のひらに伝えてくる正体不明の力にリスルは恐れを覚える。 ふっと身体から力が抜け、一瞬視界が真っ暗になった。どうにも、身の内に新しく宿ったこの力は、リスルには負担が大きいようだった。扱うものの大きさを考えれば、それもそうだろうとリスルは思い直す。 「ロゼ、どうかしたのかい?」 「あ、いえ、すみません……その、一瞬目眩が……」 嘘にならない程度に真実を織り交ぜた理由を口にし、今しがたの不審な動きをごまかすと、リスルはイルゼの身体から手を離す。イルゼは心配そうな顔で、 「そうかい。それなら、気がついたとはいえ、まだしばらく安静にしたほうがよさそうだね。私らはいつまでいてくれたって構わない。怪我が良くなるまで、自分の家だと思ってゆっくりしていくといいよ」 「いえ……あまりに長々とお世話になるのも気が引けますし、明日には発たせていただければと思っています」 身を案じるイルゼの言葉にリスルは首を横に振る。ジーク司教による拷問でつけられた全身の怪我や火刑に処せられたときの火傷が癒えるまで、できることなら体を休めていたかった。これだけ全身に怪我を負っていれば、否応なしに目立ってしまうし、そもそも無理できる状態ではない。しかし、アルクスからさほど離れていないこの村では、いつ教会の追手に見つかってしまうかわからなかった。 それにこの場所に長居してしまえば、この老夫婦に自分こそがアルクスの町を焼いた『魔女』であるということが知れてしまうかもしれない。自分の素性を知ったとき、この善良な老夫婦がどんな行動に出るのか、生まれ故郷で心身ともに深い傷を負ったばかりのリスルは知りたくなかった。 「駄目だよ。まだ、起き上がるのもやっとな状態じゃないか。せめて、あと何日か……」 「ですが……」 イルゼが善意から引き止めてくれているのはわかっていた。我ながら無茶だということも理解してはいる。それでも、リスルはどうしてもなるべくここを早く離れたかった。 「イルゼ、そのくらいにしておきなさい。彼女にも何か事情があるんだろう」 食い下がってくるイルゼを老人は静かな声で制止した。 「この辺りにいると、どうしても町が燃えたときのことを思い出してしまって、怖くて辛くて……だから、どうしても早くこの辺りを離れたくって……。お気持ちは嬉しいんですけど……申し訳ありません」 半分は口から出任せだったが、もう半分はリスルにとって本心だった。自分の中にある異能の暴走によって引き起こされた惨劇は思い出そうとするだけで胸が苦しい。 「そう…それなら仕方ないね。せめてもの気持ちばかりだけど、せいぜい今晩は精のつく料理を用意させてもらうよ。無理を押してでもここを発つというのなら、少しでも体力をつけないと」 一瞬しょんぼりとした様子を見せた彼女はすぐに気持ちを切り替えたのか、そう言うと張り切ったように階下のキッチンへと降りていった。 じきに包丁の小気味良い音とともに鍋が煮える音と芳香が階下から漂ってきた。イルゼが出ていったことで静寂を取り戻した部屋の中に、ぐううという十七歳の乙女としては屈辱的な音が大きく鳴り響いた。しばらく飲まず食わずの状態だったため、生理現象としては仕方がないこととはいえ、リスルは羞恥のあまり、顔を白く清潔な包帯が巻かれた腕に埋めた。 まだ部屋に残っていた老人はわざとらしく咳払いをすると、 「えっと……その、何だ。夕飯までもう少し時間があるから、せめてそれまではゆっくり休んでいなさい」 そう言うと、老人は部屋を出ていこうとする。しかし、失礼であることは承知の上で、一つ聞いてみたいことがあったリスルは彼を呼び止める。 「あの」 「……ヨルグだ」 「……ヨルグさん」 どうか勘違いであって欲しいと思いながら、リスルは口を開く。聞いていいものかと迷ってはいたものの、自分の異能で感じ取ったことが事実なのかどうか確認したいという欲求をリスルは止められなかった。 「もしかして……奥様――イルゼさんはこの先そう長くないのではないでしょうか」 「……どうしてそう思った」 「先程のお話中も何だか空元気であるように感じられて。どことなく、顔色もよくありませんでしたし」 ヨルグはリスルへと険しい眼差しを向ける。リスルは躊躇いがちに、口にできない根拠に触れないように言葉を選びながら、 「ヨルグさん……イルゼさんはどこか体がお悪いですよね。恐らく、胃の辺りが。かなり病気が進んでしまっていて、もうそんなに長くないと思います」 「何故……何故、そんなことが言える! あいつはわしに今まで一言もそんなことは言っていない!」 「それは……」 悪い冗談を言うなと言わんばかりに声を荒らげるヨルグに対し、リスルは口ごもる。自分に『悪魔の力』と呼ばれる異能が宿っていることも、自分こそがアルクスを滅ぼした『魔女』であるということも言えるわけがなかった。 夕飯ができたのか、階下でイルゼの呼ぶ声がした。リスルはヨルグへの返答を濁したまま、寝台を離れると、古びたブラックウォールナットの階段をきいきいと軋ませながら降りていった。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?